園子温監督が語った、「終わりなき非日常」から新しい「終わりなき日常」へ
緊急事態宣言期間中、読み直した本の一つが、園子温監督の『非道に生きる』です。はっきり覚えているのですが、代官山の蔦屋書店を初めて訪れた時(2013 年春)、店内が楽しくてうれしくなり、調子に乗って買った1冊です。
園監督の「実録もの」シリーズ
私にとって園監督と言えば『愛のむきだし』なのですが、監督は東日本大震災をテーマとする作品を作られています。突然社会派になったということではなく、園監督はもともと、社会で起きた事件をベースに映画に翻案しているというのが、この本で分かります。
- 監督の20年来の友人で、後にAV男優になった「盗撮のプロ」が、統一教会に入ってしまった妹を変態パワーで脱会させるという実話→『愛のむきだし』(2008)
- 埼玉愛犬家連続殺人事件(1993)→『冷たい熱帯魚』(2010)
- 東電OL殺人事件(1997)→『恋の罪』(2011)
- 東日本大震災(2011)→『希望の国』(2012)
その後発表した『ひそひそ星』(2016)も、構想25年と言われていますが、福島ロケをしています。
『非道に生きる』の中から、こんな箇所を引用します。
「終わりなき非日常」
社会学者・宮台真司さんの言葉を借りて震災以前の日本を「終わりなき日常」と表現するとなれば、震災以降そのような「日常」は終わり、僕らは「終わりなき非日常」に突入したのだ、とそのとき思いました(中略)「今日は0.16マイクロシーベルトだね」といった会話が普通に交わされる世界。そういう現実を「なかったこと」にして映画は撮れない。(後略)
『非道に生きる』P.121
もちろん東日本大震災と新型コロナウイルス感染症の影響は単純比較できませんが、震災によって人生が変わってしまったように、コロナによって人生が変わってしまった、そこに類似性があるように感じています。見えない敵と戦っていること、差別が生まれていることも、似ています。
緊急事態宣言解除が言い渡され、少し気持ちの余裕が出たこと、もしくは今までとは違う日常が謳われ始めたこともあり、これからの新しい「終わりなき日常」は何かと考えるようになりました。そして、将来的にこの2020年を映画やドラマで描写するシチュエーションについても考えました。
例えば、戦時中を取り上げる映画や番組には、特定の服装や場所やセリフが出てきます。戦後70年を超え、戦争を知らない世代の私たちもそういう映画やドラマを見ることがあります。
マスク、フェイスシールド、人との間隔、ソーシャルディスタンス、PCR、感染や接触を割り出すアプリ、そしてワクチン。
戦争を知っている世代が、戦争映画を見て「こうだったな」「こんなんじゃない」と反応するように、私たちも将来的に2020年のコロナとともにある日常生活を見て、いろいろなことを思い出す、人類にとっての共通体験となりました。
芸術表現はもっと自由
そのうえで、私たちもすでに飽きてしまった感があるのが、「マルチスクリーン」です。
特にZoomのような、参加者に平等にスペースが与えられている空間。目上の人と目下の人、お客様や取引先、声が大きい人と小さい人、座る位置など、一切の文脈から切り離された、現実には起こらない空間。グループに分かれても、近くにいる人の声が大きく見えたり聞こえたりすることはない。臨場感がもっとリアルになるアプリも出ていると聞きますが、視覚偏重で身体感覚をほぼ感じないことがよく分かります。もちろん会議に特化したアプリであるため、映画や演劇のようなエンターテインメント、飲み会のようなプライベートシーンには不適かと。
こんな時期、プロが撮った映像を見たくなるものです。細部にまで命の吹きこまれた映像。光の当たり方、全景から主人公の表情にわたるまで、どんなカットがつながれたものか、それを存分に楽しみたいなぁ、と。
今後マルチスクリーンは、2020年のステイホームを連想させる映像表現になるのではないでしょうか。