人は日常的に何人を記憶できるのか
奥田民生さんの『人間』という歌は、こんなフレーズで始まります。
人間は 死ぬまでに どれだけ
自分の事 他人の事
おぼえていれるでしょう
友達の名前 好きな人の顔
2、3個忘れて 困る
奥田民生 『人間』
ワタクシ、人材育成プログラムに関わっていた時期は、年間100人、200人と会う状態でした。幸いにも、スタッフは友だちの延長として接してもらい、Facebookのアカウントを2007年に取ってから友だち申請も送りあうように。
ある日、Facebookの友だちが1,000人を超えました。今はFacebookアカウントを作らない人もいますが、友だち1,000人は多い部類に入ると思います。
一方で、毎日のように「今日お誕生日の人」のお知らせが入ってきます。”Every day is somebody’s birthday”(毎日が誰かの誕生日)だからです。
だんだん関係性が薄れていく人もいました。友だちになっている人は全員、直接会った人たちですが、名前を見てもどこで会ったか思い出せない人も出てきました。
昔は、旅先で出会った人、研修で出会った人と関係を深める手段が特になかったですし、ビジネスでは名刺交換だけで終わる関係がたくさんありました。
これがSNSに代わり、私の友だちが1,000人いるような状態になったということですね。
しかし、本来は何人ぐらいを記憶していられるものでしょうか。そして日常的には、何人くらいと交流をしているでしょうか。もちろんビジネスでは無数の人に会う場合がありますが、利害関係のない友人として付き合う人を思い浮かべてみます。
幼なじみ、近所の人、幼稚園・保育園、小学校、中学校、高校。大学、サークル、恩師、バイト先や会社で仲よしの人、友だちの友だち、趣味友、配偶者や子どもを通じた友だち…。
私の感覚的な試算では、ざっくり日常的に150人、日常的に会わない人がさらに150人くらいではないかと思っています。
孤立した小さな村に住んだ場合、そして記憶の容量を考えても、このくらいかな、というように、思い浮かべています。
ビジネス利用と混同するせいか、数千人、数万人のフォロワーがいる方を見ると、友だちも多い方がよいという気に一瞬なります。もちろん、広く浅くの場合もありますが、広すぎると友だちとしての付き合いができなくなるのでは、というのが今回のワタクシの疑問です。
一期一会、袖振り合うも他生の縁という美しい表現もあるので、出会った偶然には感謝。そこから関係性を発展させていけるかどうかが、友だちになるプロセスのような気がしています。