タヒミック監督最新作『500年の航海』に流れる時間
頭のよい人の作るものは、時に美しく、時に難しい。キドラット・タヒミック監督(フィリピン)の『500年の航海』も、そんな作品だ。
まず、一回観ただけではあらすじを説明することもままならない。大きなテーマは2021年に500周年を迎えるという「マゼランによる世界一周」で、作品は「それは本当かな?」と問いかけるものだ。
分からないだらけで、本作をこれから観る方のために何かを伝えるとしたら、それは「時間」について考える作品だ、ということ。
時間、それは社会と個人の歴史
社会の歴史(時間の記録)は、個人の歴史(時間の記録)と似て非なるものだということ。
そのことを象徴するエピソードが二つある。ネタバレにならない範囲で書くと、500年前の、私たちが史実として知る「マゼランの世界一周」にも、週一のお風呂やチェスという暮らしの時間があり、フィクションながら語られること。そして「マゼランによる世界一周」は、奴隷エンリケという個人にとっては「自由の獲得」であった。さらに、エンリケが故郷へ戻ると、「世界一周」でも「自由の獲得」でもない理由で、歓迎される。このことが、とても印象的だ。
監督の40年にわたる映画人生にも、同様のことが言える。監督は息子たちの成長に伴い撮影を一時期中断しており、大人になった次男の姿をマゼランと重ねたことをきっかけに撮影再開したとのこと。制作に35年かかった驚愕の理由にも通じるが、これも、作家の社会的なアウトプットや生産性は関係なく、個人の時間の経過として、自然に家族が優先された結果だ。
時間、それは作品をともにする体験
この作品自体も、時間軸に位置付けられることを、拒んでいるようだ。物語には、始めと終わりがあるが、本作の途中で、それすらも分からなくなる! いくつかの視点で歴史が語られるが、後に相対化される。作品は有機物のように再編集され続け、捉えどころがない。原題は Balikbayan #1 とつけられていて、これは#2以降があるということだろうか。常にいのちと解釈が吹き込まれる『500年の航海』、だからこそ監督とともにある161分という(長めの)時間を、たっぷりと楽しんでいただきたい。
『500年の航海』について
イメージフォーラムにて、2019年1月26日公開。