『ぼくが生きてる、ふたつの世界』
こんにちは、星読み☆映画ライターのJunkoです!
映画『Coda コーダ あいのうた』(2020)はご覧になった方が多いでしょうか。米アカデミーでもD&I(ダイバーシティ&インクルージョン)の動きが高まった頃で、映画的手法よりもテーマが決め手となり受賞した作品と言えるでしょう。作品賞を含む3部門で受賞しました。
同じ配給会社であるGAGAが、日本でのコーダを扱った作品を配給、それが呉美保監督の『ぼくが生きてる、ふたつの世界』(2024)です。コーダとは、聴力を持たない両親のもとに生まれた、聴力を持った子どものこと。
いつものように前情報ゼロで行き、ワタシ的には『Coda コーダ あいのうた』の3倍よかったです!
『ぼくが生きてる、ふたつの世界』へのひと言
観客も、グルグル、グジャグジャ。
この映画がいいのは、テーマが「聴覚障害」ではなく「親の愛」だからです。
誰しもが親の愛をほしくてたまらないのに、受けるのが恥ずかしかったり、反発したり、見下したり、そんな連続です。また日本は、”I love you”も言わないし、ハグする文化もないので、愛情表現が難しくもあります。そんなもどかしさと共に、人は成長し、親離れしていく。
観客は主人公 大(ダイ)のそんな感情に振り回されます。「お母さん大好き」「お母さん大嫌い」「お母さん助けたい」「お母さんうざい」…。
大が、聴覚障害をもつ母親をそのまま受け入れるのが難しいこともあるし、傷つけてしまうこともある。その逆で、親は、どんな大ちゃんでもそのまま受け入れている。この対比が印象的です。
この世に何も残らなくなってしまった時、最後にあるのは親の愛、とくに母の愛。それしかありません。
観客は感情がグジャグジャになっている大に振り回され、しかも自分自身の親への感情もグルグルして、刺さる感じがあります。
子どもの残酷さと可能性
主人公の幼少期から成人までを見るこの作品ですが、特に小学生は残酷ですね。日本の小学校は同質性を求めるところもありますし、自分の親が「ちがう」と思わせることはものすごく影響力を持ちます。
一方で… 「手話できてカッコいい」というのも子どもらしい視点です。自分にはできないことができるから、教えてほしい。できない人がマイナスをゼロにするための道具ではなく、ゼロからプラスになる手話。外国語と同じスキルとしての手話。純粋な興味が素敵でした。
自立の問題
この作品には、一つ教訓めいたことがあります。それは、聴覚を持つ人が勝手に手伝うことは、聴覚を持たない人ができることを奪っているという考え方です。例えば、レストランでの注文。大は、母の通訳となることが染み付いていて、ほかの聴覚障害者から「私たち自分でできるから」と指摘を受けます。
これも、聴覚だけに留まらない議論だから奥深いですね。「よかれと思って」が相手を傷つけることがある。この場合、相手にきちんと言うことも大切です。
英語だと、こんな表現があります。
“Treat others the way you want to be treated.” (自分がしてほしいように、相手に振る舞いなさい)
“Treat others the way they want to be treated.” (相手がしてほしいように、相手に振る舞いなさい)
前者はキリスト教での教えに基づいていて、 ”Do unto others as you would have them do unto you.”(他人にしてほしいことを、あなたが他人にしなさい)というのが聖書の中にもあります。令和の時代では後者ですね。当事者はどう考えるのか、そこには対話が必要。そんなエッセンスも入っていたように感じました。
五十嵐 大さんの原作にも興味がありますが、映画にすることでパワフルになった側面もあると想像しています。
『ぼくが生きてる、ふたつの世界』 (幻冬舎文庫 い 74-1)(2024)
『聴こえない母に訊きにいく』(2023)
余計なことは考えずに、見てほしい一作です。
今日はこの辺で。