社会の一員として世の中の事件を考えてみる

2000年、バスジャック事件。2015年、川崎市の中学生殺害事件。2016年、相模原の障害者施設での殺傷事件。先週のクライストチャーチの銃乱射事件。

どれも「なぜ?」と思わざるを得ない、悲しい出来事です。そして、未成年か、比較的若い人物による犯行です。

媒体名を覚えていないのですが、様々な凶悪な事件に対して、その事件を「引き起こした社会の責任」と捉え、「社会の一員として自分には何ができるか」を考える意識が、日本人には希薄ではないか、という内容の記事を読んだことがあります。取り上げられていた外国の例では、一人一人がどうしたらよいかを考え会話をする、とありました。

たしかに、単独の犯行だった場合、「この人はクレイジーだ」「この人は病を抱えた人だ」と切り離すことは簡単です。

メディアは犯罪者の家庭環境、通った小中学校や同級生のコメントなど、生い立ちを積み上げて犯人像を探ります。

このように「個」に原因を求めると、被害者はその「個」の犠牲となった「不運」でしかなくなり、次への教訓にはつながりません。「個」ではなく、「社会」や「人間の集合体」に求める、という視点は、たしかに薄いように思います。

何かできたのではないか、という気持ちは自身を過大評価しているかもしれないし、おせっかいかもしれません。しかし、例えば「この経験があれば(なければ)こうはならなかったのでは」というような何かがあったなら、積極的にかかわることで将来的な予防につながるかもしれないと思うのです。

大切な家族や友人を失った方、被害に遭われた方にとっても、二度とこのようなことが起こらない、というのが最大の願いだと思うからです。

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もし加害者になりうる人が身近な誰かだったら。地域の住人、学校の同級生、アルバイト仲間だったら…。いつも気にかけてる? どんな声をかける? 変わった様子はない? 相手も心を開いている? 自分には何ができる?

私たちの多くは法律やルールを作る人ではありませんが、だから受け身でよいということではない。やはり自分ゴト化して、社会の一員として何ができるかを、構成員同士で考えてみたいと思うのです。

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どうしても読んだ記事が思い出せないので、分かったら追記しておきます!

Junko

1973年静岡生まれ、星読み☆映画ライター。アメリカ留学経験者、異文化交流実践者、広報コンサルタント。

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