ピクトグラムで黒子を見せる日本文化
こんにちは、映画☆星読みライターのJunkoです!
今日は、東京オリンピックで話題になったピクトグラムについて。
ピクトグラム自体はもうお馴染みかと思いますが、文字(言葉)ではなくビジュアルで理解を促すよう作られたイラストのこと。
英語でpictogram(個々を指す場合)、またはpictograph(総称)です。
人類は古代エジプトの頃から、象形文字など、見たものを描いて意味を持たせることはしていたのですが、東京オリンピックで「外国のお客様に分かる」競技やトイレの案内をし、後にその著作権を放棄したということでした。
私も海外に行った時、経験があります。レストランのトイレで、現地の言葉で「男性」「女性」と書いてあり、その他何もヒントがない時…。出てくる人を待って判断するか、いちかばちかでドアを開けてしまうか(外国人特権)。それよりは、(2021年の文脈では決めつけもできませんが)女性がスカートを穿いた人物のイラストだったり、赤色だったり、貴婦人やミニーマウスのイラストがあったりすると、理解ができるのです。
さて、東京オリンピック2020の開会式で噂になったのは、この「動くピクトグラム」がシュールだったということ。これは、日本伝統芸能風にやったということだと思います。
明治時代くらいでしょうか、西洋(欧米)の知識層は、日本の歌舞伎や能を見て驚いたと言います。なぜ?
それは、黒子の存在でした。
西洋の解釈によると、黒子は「見せたくないものを消さずに、景色に同化させてしまう」存在。例えばヨーロッパのオペラやミュージカルで、場面転換など見せたくないものは見せず、一旦暗転という判断を取ります。照明を落として、隠すという考え方です。
ですから、例えば蝶々を追いかける主人公がいたとして、蝶々を黒子がパタパタと飛ばせていたり、花吹雪が舞った後に、花吹雪をお掃除する黒子が堂々とステージにいたりすると、それに度肝を抜かれる、ということです。
この動くピクトグラムでも、青と白が使われていますが、「青も白もあるけど、青を見てね」と見る側に委ねているのが分かります。これは、提供側がコントロールして、「青しか見せない」というスタンスとはちがうのが、分かるでしょうか。
さらに、白を見ようと思えば見ることができる。青があるから白がある、白があるから青がある。奥が深いですね。
日本映画を勉強していた時、谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』(いんえいらいさん)が課題図書でした。
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この中に出てきた障子の話をよく覚えているのですが、西洋の「光と影」、0か100かという発想で行くと、日本家屋の障子を通して入る柔らかな光は、どれに分類されるのか?それが朝なのか、夕なのか、曇りの日なのか、夜あんどんの光がついた時なのかで、バリエーションありすぎです。
表も裏もない、全部見せる、というのが日本文化なのだ、と評価されたんですね。
日本に育つと、学芸会レベルでも「黒子」がいるので当たり前と思ってしまいますが、さまざまな演出においてこの「何を見せて、何を見せないか」の発想は、注目すると面白いと思います。
2人組パフォーマーは、ガベジさんでした。
東京オリンピック2020で見ることのできた、進化版、いや温故知新版のピクトグラムが、大好きだ!