広瀬香美さんが神様から与えられた才能に気づくまで(しくじり先生SP)

たまたま見たテレビ朝日『しくじり先生 俺みたいになるな!!』特別授業SP (2020年7月12日放送)が面白かったので、まとめておきたいと思いました。

(c) TV Asahi

冬の女王で人気YouTuberの広瀬香美先生が登場します。そう、ついた呼び名は冬の女王なのですが、先生ご自身が、「私は冬の女王様」と様をつけるのが、可愛らしいです。私は広瀬さんブレイク時、ちょうど留学していて日本のポップスから離れていたため、広瀬さんの活躍はリアルタイムで存じ上げません。

スタジオに雪が舞う演出の中、先生登場、「ロマンスの神様」を歌う、かと思いきや、自己紹介です。

広瀬さんは1992年デビュー、1993年の「ロマンスの神様」が大ヒットし、170万超え、女性ソロの売上を20年ぶりに更新しました。「ゲレンデでとけるほど恋がしたい」などヒット曲多数。冬の女王と呼ばれ、YTとしても活躍。5オクターブ&ハイトーンボイスが特徴で、下手にカラオケで歌えませんね。

冬のゲレンデで大抵「ロマンスの神様」がかかっているが、少し音量を下げないと雪崩が起きる可能性がある、という都市伝説をノブシコブシの吉村さんが紹介し、会場爆笑。

広瀬さん、「変なこだわりを持ち続けてしくじってしまった」ことを語ってくださいます。

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幼少時代は絶対音感少女

広瀬さんは、福岡県で育ち、絶対音感のある少女でした。4歳半から音感レッスンに通い、すべての音がドレミファソラシドに聞こえたそうです。こらー!と叱られたとき、分かりましたを「ドミミミドド」と答えてしまった、カレーを「ドミー」と言ってしまった。絶対音感を使ったことで周囲に気持ち悪がられ、孤独になってしまったことも。すべてが音に聞こえてしまい、熱が出て眠れない時もあったそうです。

生徒役の鬼龍院翔さんは、「レファーレ ファー」だそうです。

音楽スパルタ家族に育ち、両親に「この子は絶対音感があるから」ということで、ピアノ毎日1時間30分。練習しないと全員ご飯抜き、クラシック以外は邪悪なものとされ聞けず。テレビも見せてもらえず、ピンクレディーなどは学校のお友だちから知ったそうです。

この時は、将来は「絶対にクラシック音楽の作曲家になるばい!」と考えていたそうです。作曲が得意なため、音楽でしか生きられないと、家族もみんな思っていました。

大学での挫折とロサンゼルス生活

広瀬さんは、超難関の国立(くにたち)音楽大学の作曲学科に進学します。久石譲さん、テノール歌手の秋川雅史さん、ジャズピアニストの山下洋輔さんらを輩出してした名門大学。作曲学科の同級生15名中、現役合格は4名、ほとんどは浪人生だったそうです。

前期のテストで、曲の導入部分が提示され、その後の作曲を今日中にして提出しなさい、という問題が出ました。当時キレッキレの広瀬さんはよいメロディが浮かんでいたので、それを提出したところ、なんと最下位。作曲の最低限のルールから逸脱していたため、ということのようでした。クラシックのルールよりもこちらの方がよいと思うアイデアを入れていくと、先生は「間違っている」という評価を下す。作曲学科1位でもプロとして生き残るのは大変と言われる世界で、人生で初めての敗北を味わいました。

クラスで落ちこぼれてしまい、ストレスで超激太りをします。住んでいたアパートの1階がモスバーガーで、照り焼きチキンバーガーやライスバーガー、隣のスーパーでチェリオ(チョコアイス)を10個、12個と買ってしまうそうです。学校も行かず家のピアノの下で、ハンバーガーとアイスを食べまくる生活。体重65キロ、バスト106cmまで増えたそうです。バストの106は嬉しかった、心に刻んでいる数字です、なんてジョークもありました。音楽一本でやってきて、自信もあったのに、鼻をへし折られた経験がこの時でした。

世の中には、スゴい人がたくさんいる。グレずに現実を受け入れよう。

自分は一番だと思っていたけれど、一番ばかりが集まる場所に行ったら、全く歯が立たなかった… これはどの世界でも、特に芸術はよくあることですね。それでやさぐれてしまったが、その時「絶対作曲家になってやる!」と思ったそうです。これが、変にこだわっていくことの始まりでした。

ロスに留学していた友人が、広瀬さんの様子を心配してロスに来たらどうかと声をかけてくれ、マイケル・ジャクソンのコンサートに連れて行ってくれました。禁じられていた「邪悪な」ポップスを聴いて、衝撃を受けたそうです。

当時20歳の広瀬さんは、「私はマイケルジャクソンの曲を作曲する!」と、次の目標を立てます。幼いころに叩き込まれたクラシックのルールは無視して、曲作りができると考えたそうです。

そこでなんと、マイケルの知り合いに近づくことから始めました。作曲の勉強をしながら色々な人に「マイケルの知り合いいない?」と聞いて回り、1年後に、ボイトレの先生のチラシを持ってきてくれた友だちがいて、幸運にもボイストレーナーのセス・リッグス (Seth Riggs) 氏を見つけることになります。この方は、スティービー・ワンダー、マドンナ、ジェニファー・ロペスにも指導し、今年90歳になる大御所。英語ではボイストレーナーのことを vocal coach(ボーカル・コーチ)と言います。広瀬さんはこの時、「歌手になる気はないけれど、この人のボイトレを受けよう」と思ったそうです。

一般で無名の人が生徒になるには、一次試験の歌唱と二次試験の聴音を受ける必要があるそうです。一次試験は英語の童謡である「You Are My Sunshine」で挑戦し、審査員の先生方は童謡かつ歌の下手さに爆笑したそうです。この時、マイケルの作曲家になりたいということも、伝えたそうです。二次の聴音で、先生が歌うフレーズをその場で記憶して歌うテストをし、こちらはずば抜けてよい結果を出したそうです。面白いやつで、聴音が桁外れによかったので、何か持っているに違いないと思って下さったのか、まさかの合格。東京とLAを行き来する生活が始まります。大学をやめるつもりが、卒業だけはしてくれと親に泣きつかれ、LAから大学の教授にテストを提出したりもしつつ、何とか卒業します。

レッスン代のために歌手オファーを受諾

リッグス氏のボイトレの授業料が高額で、家計がピンチになってしまいました。30分で250ドル、週2回受ける必要があるため、月に30万円以上の出費がありました。歌手になる気がないのに、歌だけどんどんうまくなる結果に。マイケルに書いた曲を持って行っては先生にアピールするものの、全く相手にされず、「面白い声をしている、トレーニングしたらよい」と言われ続けたそうです。

そこで… 日本の歌手に曲を提供して、ボイトレ代を稼ごう!バイト代感覚でポップスの曲を作りデモテープを30カ所以上、300本以上送り続ける、手渡しでも100人以上渡したそうです。しかし3年間何もなく、歌だけがうまくなる… トレーニングのおかげで、2オクターブくらい(声域が)上がったそうです。

2年間、720万円かけて続けたレッスンを、お金がなくなって止めざるを得なかった広瀬さん。その時、1社のレコード会社から「声がいいから、あなたが歌ってデビューしてみたら?」と誘われます。しかし広瀬さんの反応は「いやだ、絶対!」人前で歌うなんて気持ちが整わない、そんな理由からでした。広瀬さんの希望は、あくまで裏方のソングライターです。宇宙の計らいレベルで見ると、大きく揺さぶりをかけられていますが、まったく気づく様子がありませんね。

さらに、「1曲20万円でアルバム出さない?」というオファーがありました。12曲あれば240万円になるので、貧乏だった広瀬さんは、このオファーを受ける決意をします。「ゲレンデが溶けるほど喜びました」とオチあり。

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自分の歌った曲があれば名刺代わりになるだろうと考え、6,000枚作ったサンプルのうち1,000枚を自分で配り、作曲家への道を拓くつもりでデビュー。デビューアルバムは「Bingo!」(1992年7月)、デビューシングルは「愛があれば大丈夫」(1992年12月)。この時も、マイケルへ楽曲提供する気満々です。

翌年、「ロマンスの神様」が170万枚を超える大ヒットに。アルペンのスキーCMがきっかけでした。このサビを思いついたのはずっと前で、福岡にいた中学生時代だそうです。神童ぶりが分かりますね。デビューアルバムはすべて、小さい頃からのストックだということでした。

しかし「私がなりたいのは作曲家!」という気持ちは消えません。ロスで作曲家の勉強をしていた広瀬さんは、日本中で曲が大ヒットをしている状況は知らず、週一度送られてくるファックスのオリコンチャート1位を、他人事のように見ていたそうです。その頃、テレビに出るのは年に数えるほどでした。

テレビではどうしてよいか分からない、どのカメラを見たらいいのか分からないということで、本人曰く「メチャメチャ」。とりあえずここに立って歌おう、やり過ごそうという気持ちで立っていたそうです。

ヒット曲連発で、名実ともに「冬の女王」に

「ロマンスの神様」(1992)「幸せをつかみたい」(1994)「ゲレンデが溶けるほど恋がしたい」(1995)「DEAR… again」(1996)「promise」など。アルペンのすべてのCM曲に採用され、夏はTUBE、冬は広瀬香美さんの時代の到来です。ボイトレ代を稼ぐための歌手活動が、印税ドカーン!につながります。

マイケルへ楽曲提供したい気持ちが、紆余曲折してお金が入ってくるので「訳が分からない」。まだ、歌で進んでいいよと言うゴーサインを受け取り拒否していますね。しかしいくら拒否しようとも、幼少期から「才能だけがずっとある」というのは、オードリー若林さんの名言です。

当時「歌手になる気がないのに売れた」と言うと、ボコボコにされそうで言えなかったが、本当に作曲家になりたかった、という広瀬さん。本当に望むものを手に入れたくて、若いうちは切り替えがうまくいかなかった、歌手を受け入れることができなかった、とご自身を分析します。ねばり強さが伺えます。

「広瀬香美のどこが好きですか?」という街角アンケートの声に、「声がいい」「歌詞がおもしろい」と言うコメントばかりで、曲を誰も認めてくれないので大ショックを受けます。そして、作曲しかしてこなかったので歌詞が書けずに泣きながら取り組むという事態も経験します。当時、月3曲の新曲を書くノルマがあり、徹夜で泣きながら、ダメ出しを食らいながら、の日々でした。「シンガーソングライター」の流れがあったため、歌詞を誰かに依頼する発想はなかったそうです。

そして6~8月の真夏に作詞するため、気持ちが入らず冬の歌詞が書けないということも。スキー雑誌を買い込み、冷房をかけて、マフラーを巻きながら妄想したそうです。なのでややテンション高め、夏の気分がチラ見えている冬に仕上がっているのだとか。

そして広瀬さんは一度もスキー場に行ったことがないということも発覚します。スキーを1回もしたことがないのに妄想の歌詞が褒められてしまい、心がズタズタに。女性誌を買ってLAに運び、「ゲレンデ」「スノボ」など単語だけを抜き取って、歌詞にしていたそうです。

スキーをしたことがないのはまずいとさすがに思い、アルペンから送ってもらった最新のスキーセットでゲレンデに向かったものの、感想「ただただ怖かった」。事務所からは「特に冬が好きではない」「スキーをやったことがない」「真夏のLAで曲を作っている」は言ってはならないと、封印されます。先ほどのTUBEも冬に夏の楽曲を作っているだろう、しかし広瀬さんとは決して交じり合わない、と会場が笑いに包まれます。

さらなるしくじりは、当時「ライブをやりましょう」というオファーに、「私、歌手じゃないんで」と断っていたそうです。CDの音源と生の歌を比べられ、下手だと思われるのが怖かったそうです。歌手だと思っていないので、ファンの気持ちが分からない、お客さんが審査員に見えてしまったとのこと。クラシック育ちで点数をつけられて育ったことが、影響しているとご自分で振り返っておられました。

1998年、ベストアルバムをリリース。「広瀬香美 THE BEST “Love Winters”」が 190万枚のメガヒットに。相変わらず、ファンの感想は「声がいい」「歌詞がおもしろい」と、曲の感想はゼロです。有名人になるつもりもない広瀬さんが、街で指をさされ、「もうさぁ~」という本音がこぼれます。しかし、これだけ売れると仕方ないかな、歌手をやっているのでもいいかな、とあきらめの気持ちになっていたそうです。

音楽は、作る人、奏でる人、聴く人がいて成り立つもの。「自分がどうしたいか」だけで見るのではなく、少しオトナになって「聴く人の思いも叶えたい」と見つめ直してみたそうです。

キャリアの話でもよく、Will, Can, Must(ウィル・キャン・マスト)と言います(参考サイト)。Willは自分のありたい姿、Canは今の自分にできること、Mustは今のCanから将来のWillに到達するためにすべきこと、という意味です。広瀬さんにWillはあったし、Canもあった。Mustが少しズレてしまい、WillにこだわりすぎてCanの活用を少しおろそかにした、そんな印象があります。

「もうわかった、ありがとう。これからは本気で歌手を目指す!」

曲を否定されているのではなく、声と詩と曲がセットなのだと思って、広瀬さんは気持ちを切り替えます。そして、デビュー10周年でやっと初のコンサートツアーを実施。本番は胃薬を飲んで歌う、MCも暗記して同じことをどの会場でも言う、という2時間きっちりのコンサート8会場を乗り切ったそうです。そして2年間充電(というのもスゴいですね)。

デビュー12年でコンサート活動を復活し、歌手としての自分をこんなに求めてもらっているんだということに気づきます。歌うことで世の中を元気づけたい、ファンの方々が喜ぶ姿にも目を向けられるようになったそうです。

しくじった広瀬さんが、一番伝えたい言葉は何でしょうか?

人から褒めてもらったことを好きになる努力をしてこずに、自分の中に大きな葛藤を生んでしまった広瀬さん。音楽というジャンルの中で色々チャレンジできることを、やらなかった。誰だってやりたいことができるわけではないけれども、できることは必ずあります。

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変なこだわりを捨てて、人の評価を受け入れてみる。世の中の声を聞く。流れに任せてみる。できることを好きになる努力をする。
そうすれば、自分も周りもちょっと幸せになるかもしれない。

最後にやっと、「ロマンスの神様」を歌って下さいました。Romanceの「ロ」が英語っぽくて、舌をぐっと巻く発音は、本格的です。

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しくじりの神様、「♫どうもありがとう♫」で締めくくられました。

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YouTuberとして大人気

広瀬さんはYouTubeチャンネルを開設され、すでに30万人(2020年7月時点)のフォロワーがおられます。

コンサート中のトークは苦手で暗記したという話もあったのに、お話し好きな感じが見受けられます。話はいいから、早く曲を歌ってくれ、というコメントも多いようでした。見た目吉田羊さんのようなクールビューティですが、テンションの高さでは平野レミさんを感じさせます。

カバーでもオリジナルにしてしまう個性は素晴らしく、Official髭男dismさんの「Pretender」、米津玄師さんの「Lemon」など、人気が高いです。

私が好きなのは、音楽分析が入っているところです。こういうのはいらない、という方もおられますが、ロゴス人間にとって言葉は大事なので、私は同じことを映画分析でやっています。「なぜいいのか」を「何となく」ではなく「この音の変化が特殊」「サビでなく冒頭から全開」と解説できることはとても大切。

強みも弱みもすべてさらけ出して、歌を楽しむ、音楽を愛する広瀬さんは素敵でした。今後は、元気がほしい時、広瀬さんの曲でエネルギーチャージしたいと思います!

Junko

1973年静岡生まれ、星読み☆映画ライター。アメリカ留学経験者、異文化交流実践者、広報コンサルタント。

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