女性専用車両に見る、目的と手段あれこれ
先日、乗り継ぎの関係でラッシュ時に地下鉄の先頭車両に乗る体験をしたが、ちょうど女性専用車両となる時間帯だった。満員だがむぎゅーっと押されても脂肪の柔らかさを感じ、何より安心感があった。お互い理性と分別のある大人としても、満員電車での近づき方は日常の空間にない異常さがある。
オンラインメディアNewSphereで、女性専用車両について複数回取り上げている。オーストラリアとイギリスの事例だ。私はエジプトのケースを7-8年前聞いたことがあるが、「女性専用車両を先頭車両に導入したはよいが、お話が盛り上がって=うるさく、運転手に影響があることが分かり、中央車両にした」ほほえましい&笑える導入エピソードもあった。エジプトはイスラム教徒中心の国であり、男女を空間で分けることは見られるかと思う。
日本での導入背景は、主に痴漢犯罪への対策だ。犯罪を取り締まれるならば、つまり車両ごとに警備員がいたり、動かぬ証拠が必ず録画されているような環境であれば、まだよいかもしれない。しかし、その環境が確保できず犯罪が繰り返される現実があるならば、私自身は混雑が異常な状況においては、女性専用車両を一つの自己防衛の対策、リスクを軽減する選択と考えてよいと思う。
このように、国によって施策や対策は変わることがある。私が聞いた、障がい者の分野でのちがいを紹介しよう。車いすの利用者がA地点からB地点まで行く場合。イギリスは移動すること自体にフォーカスを置き、その人に車を手配する。車いすに乗っている人がエレベーターも少なくホームも狭くて不便な地下鉄を、わざわざ利用しなくてよいだろう、という見方。つまり移動手段は異なってよいことになる。例えば何かのイベントに行くとしたら、一緒には移動できないことになる。
日本は、公共交通機関の身近さもあると思うが、地下鉄を同料金で乗れることを平等とする感覚が強いだろう。実際に、乗り降りサポートを含めて駅のスタッフが対応している。もちろん民間の努力で、素晴らしいことと思う。
バリアフリーの観点から、バリア(障壁)を移動自体の目的とするか、移動手段のプロセスとするかで、大きく分かれることを実感した。当事者のニーズはどこまで汲み取られるだろうか。
さらに言えば、映画や観劇の際、車いすのスペースを見つけたことがあるだろう。しかし通常は一か所だ。車いすを必要としない人は、S席やA席や二階席、いろいろな選択ができるのに、同じお金を払っても「ここにどうぞ」と決まっているスタイルは、本来どうだろうか。米国では、コンサートで車いす利用者も席が選べると聞いた。人間にとって、選べることは本当に大切だし、選択肢があることが、その人を尊重することなのだと、感じる。