読むように観る、『日の名残り』
こんにちは、星読み☆映画ライターのJunkoです!
今日は旧作、『日の名残り』(1993)について書きたいと思います。ジェームス・アイボリー監督は、なんとアメリカ人と言うことで、驚きです。こんなにもイギリスっぽい映画は、原作がカズオ・イシグロだからでしょうか。では早速ひと言です。
『日の名残り』へのひと言
20年を2時間で見せる、小説のような映画。
この作品、2回観ないと分からないくらい、時代がポンポンと飛びます。
時は1930年代、大戦と大戦の間。ダーリントン卿に同時期に仕えた執事、スティーブンス(アンソニー・ホプキンス)とミス・ケントン(エマ・トンプソン)の日常を描いています。
そして、その20年後、スティーブンスは新しい主人であるルイス元議員からお休みをいただき、ミス・ケントンからベン夫人になった彼女を訪ねます。このシーンからあのシーンへ、と軽々と場面が移動し、初めはついていくのがやっと。だからこそ、濃い作品です。
小説は未読なので、「小説通り」かどうかは判断ができませんが、物語の運びと濃さが、小説的だなと思った次第です。
昭和のつつましさ
スティーブンスは、20年経ってもミス・ケントンとの距離を保ったまま、昔話をして、おそらくは本心を伝えないままにお別れする。感情表現をしない、ちょっと昭和の世界観というか、職業人の自分を優先する、静かで控えめな物語。『マディソン郡の橋』にも通じるものがありますが、好きな気持ちを伝えなかったり、それすらも自己認識できなかったり、という男性が主人公です。そこに美学を感じ、自己を投影する人もいるかも知れません。
歴史編纂学の価値
1930年代といえば、国と国が緊張関係にあり、隣国と友になるか敵になるか、が取り沙汰されます。歴史に翻弄されながら、お屋敷で起こることといえば、父親との確執、チャイナマン、ちりとり、クルトンをバターで揚げているか、など些細な話ばかり。
そう、これが日常なのです。
そしてそんな日常の中に、親の死という大きな出来事があったり、国際会議、ナチスの台頭など、さらに個人を超える出来事があったりと、物語は進行します。
歴史をどう綴るか、捉えるか、というのは根本的な問題です。戦争下であっても、苦しんでいる人もいれば潤っている人もいる。戦争前とあまり変わらない人もいる。戦争をしていると言う感覚が麻痺してしまうかも知れない。そんな中で、人間の営みこそが歴史だとするならば、人が出会い別れる瞬間が詰まっているのが本作です。取るに足らない日常でもあり、世相を支えている日常でもある。ここが実に面白いです。
そこにあるイデオロギーが鎮座し、時代とともにそのイデオロギーは陳腐化する。戦後誰でもしたような経験を、この映画でも取り上げています。信じていた人が信じるに足りなくなる。仕えていた人が悪者扱いされる。車が故障する小さなエピソードの中で、スティーブンスが耳にする他人の声というのは、痛くもあります。
非デジタルの時代だからこう綴れたのだろうと思いながら、その中に「人間はこうやって一生を終えていくんだ」と思わされるような本質もあり、アンソニー・ホプキンスとエマ・トンプソンに最大の賛辞を送りたい、名作でした。そしてジェームス・アイボリー監督の他の作品も見てみたいと思わせる作品でした。