結局のところ人間描写が面白い、『ノー・ベアーズ』
こんにちは、星読み☆映画ライターのJunkoです!
ジャファール・パナヒ監督の新作、『ノー・ベアーズ』(No Bears, 2022)を観てきました。東京フィルメックスのオープニング作品であり、最終日の最終回にも上映しているので、非公式にはクロージング作品でもある。タイムテーブルからもすごいリスペクトを感じます。
では早速、『ノー・ベアーズ』へのひと言です。
『ノー・ベアーズ』へのひと言
やっぱりパナヒ監督だなぁと思うのが、優れた人間描写でした。
おもしろい脚本は、無限に存在する。
この作品は、2つのロケーションで展開していて、その2つはデジタルによってつながれています。一つは隣国との国境が近いイランの小さな村、もう一つはトルコですね。パナヒ監督がイランから指示を出して、トルコで映画の撮影をしているようです。
やはり人間は肉体があって重力がある以上、瞬間移動もできなければ、見た物のコピー(複製)や記憶をリプレイすることもできません。そしてそういう不完全だからこそ、滑稽であったり、愛おしかったり。
私は特にイランの小さな村での出来事が、興味深かったです。しきたりというものに文化人類学的な面白さを感じました。婚約者が小さい頃から決められているがライバルが現れたり、自宅に招かれると靴を脱いで紅茶をいただくおもてなしがあったり、地域の男性だけの会合があって、神に証言するという名目で何かを白状させられたり。
世界のどんな小さな村でもこういう話は取れるんじゃないか、と思わせる人間の行動の数々。デジタルとは真逆の泥くさい行為。
デジタルで世界が一つになっているこの世の中で、目撃者に証言させた時には、「羅生門か!」と突っ込みたくなりました。溝口健二監督みたいなエンディングだし!
現在の監督の状況
イランのシーンでもう一つ特筆すべきは、パナヒ監督が現在体験しておられるであろう、さまざまな拘束を彷彿とさせることです。言ってみれば嫌がらせというか、ストレートにAと言う代わりに、あの手この手で干渉してくる。意図があるとも限らないし、ないとも限らない。ただ人の発言にいちいち裏を考えてしまったりして、とてもストレスです。途中、監督がブチ切れるシーンもあるのですが、権力との戦いが長いものであることを、想像してしまいます。
トルコでのシーンは、カップルが偽造パスポートで海外逃亡を謀るドキュメンタリーなのですが、これだってパナヒ監督の置かれている状況と関連していますよね。作品の読み方はいろいろあります。
デジタルでの閉塞感
前述したように、イランでのパナヒ監督は、映画撮影をしているトルコとPCの画面でつながっています。ただ、画面でつながっていると言うことは、顔の表情と音声だけが行き来する、ある種の閉塞感もある空間となっています。そこに乗せた感情は、正確に届いているんでしょうか? 本来ならばリモートで監督するなんて現実的ではないので、そのもどかしさもあるのですが、もう少し人間の「3D感」や「生き物感」が、私たちには必要なんだなと感じます。
今日は感想めいてしまいましたが、最後に、この映画に日本配給がついているようで、よかったです(アンプラグド)!
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