「やるせなさ」の先に見えるもの――『オールド・オーク』
こんにちは、星読み☆映画ライターのJunkoです!
敬愛するケン・ローチ監督の最新作、『オールド・オーク』(2023)を見ました。
舞台はイギリス北東部の元炭鉱町。衰退した町に、行政のサポートを得たシリア難民たちが移住してきて、住民との間の軋轢がどんどん表面化していきます。難民を登場させたところは、現代イギリスを見つめるケン・ローチっぽいです。
『オールド・オーク』へのひと言
線香花火が最後に一つの球体になるような、ラスト。
詳しくは、後述します。
映画の前半では少し戸惑いました。
中年男性TJが経営するパブ「オールド・オーク」の奥の部屋を開放し、無料食堂にすることで、地元住民と難民が一緒に食事をする場を提供することになります。
食卓を囲むことは、この炭鉱の町でも昔から団結(solidarity)するためにやっていたこと。互いの距離が縮まっていく様子は画面からも伝わるものの、正直なところ「そんなにうまくいくだろうか」と感想をもちました。宗教も文化もちがうし、食べ慣れた料理もちがう。そもそもイスラム教徒の中には、お酒を提供するパブという空間に居心地の悪さを感じる人もいるでしょう。
理想としては理解できるけれど、文化的な隔たりは映画が描くより大きいのではないか。そんな気持ちで見ていました。
しかしながら、シリア難民も、街の人も、食事提供者も、生活に余裕がない状態ですから、安泰に続くイメージがあまりない。ここから起承転結の「転」となります。
このコミュニティ食堂の部屋が、配管の不具合で水浸しになり使えなくなってしまうのですが、それは事故ではなく事件でした。つまり、指示により意図的に仕組まれたものでした。
TJは犯人探しをしたり警察に届け出たりせず、泣き寝入りです。立証したところで、相手に支払い能力がないと分かっているからでもあるでしょう。
そして、TJのバディだった愛犬まで、この混乱に巻き込まれます。誰かが責任を取るわけでもなく、問題が解決するわけでもなく、ただ悲しみだけが残ります。
この行き場のない怒り、やるせなさこそ、ケン・ローチ節なのです。
最後に来るまとまり感
考えてみれば、この映画に登場する人々は皆、何かを失っている。
町の住民は仕事を失い、かつての誇りを失いました。難民たちは家を失い、故郷を失いました。TJも妻と離婚し、自転車操業で生きている。
だから、他人に優しくなるのは難しい。
差別や排斥は正当化できるものではないですが、その背景にある喪失や絶望も同時に描き、単純な善悪では割り切れない現実を突きつけてきます。
そして終盤、物語は思いがけない形で一つに収束します。
シリアから逃れてきた家族に、戦地にいた父親の訃報が届く。これこそが、やり場のない怒りです。家族が散り散りになろうとも、いつか平和が訪れて、再会できる日を夢見ているからです。父親の命を奪ったものは、この炭鉱の町から遠く離れたところにあります。
その死を悼む場面で、住民が弔問に訪れます。
宗教も文化もちがう中で、「どうしたらいいか分からない」。それでも「家族を失った悲しみ」「夫や父親を失った悲しみ」「家族がいなくなること」は理解できる。
だから何かを持って駆けつける。
ここは、線香花火が最後ジジジ…と一つの大きな球体になるかのような、エネルギーを感じました。その場面で私は涙が止まらなくなりました。
移民問題や人種差別、格差と町の貧困、一つも解決していない中で、人として共感できるものが「喪失」への悲しみだったのです。
ケン・ローチ監督は、一貫して世の中の理不尽さや不公平さを見つめています。彼の作品は、やるせなさだけが残ったり、登場人物が自暴自棄になったり、悲しんだり怒ったりしながら物語が作られていますが、『オールド・オーク』は少しだけ、やるせなさの中に人の温かみを感じたのです。
そして、この作品が監督作品の最後と言われているようですね。徹底的な弱者の視点を貫いた監督作品を通じてイギリス社会を感じることができて、本当に感謝しています。
今日はこの辺で。
公式サイト:https://oldoak-movie.com/