観客もパティンソンになって、あたふたする---『ドラマなふたり』
こんにちは、星読み☆映画ライターのJunkoです!
『ドラマなふたり』(クリストファー・ボルグリ監督、2026)を観てきました。
観に行った理由は、シンプルです。
ゼンデイヤとロバート・パティンソンが好き🩷だから。
結婚を目前に控えたカップルをこの二人が演じる。タイトルも『ドラマなふたり』。ちょっとクセのあるラブコメディかな、くらいに思っていたのですが、これが予想以上に面白かった。
『ドラマなふたり』へのひと言
ゼンデイヤを観に行ったら、パティンソンに持っていかれた。
この映画の面白さは、ひとつの人物にいくつもの姿が重なって見えてくるところにあります。
私は、レイヤー(層)のある映画が好きです。
例えば、俳優本人と、俳優が演じている人物。
登場人物の現在と、過去、未来。
そして、観客が最初に見ていた人物像と、ある事実を知ったあとに見えてくる人物像。
ひとつの人物を見ているはずなのに、その奥にもうひとつの顔が透けて見える。『ドラマなふたり』は、その「重なり」がとても面白い映画でした。
知らなかった過去が、現在に重なってくる
結婚を目前にしたエマ(ゼンデイヤ)とチャーリー(ロバート・パティンソン)。
ある夜、二人はもうひと組のカップルと一緒に「これまで誰にも言っていなかった悪事」を打ち明ける遊びをします。
そこでチャーリーは、エマの知らなかった過去を知ります。
***ここから先は、少しネタバレがあります。***
その過去が、単なる若気の至りではなく、人の命に関わることだったとしたら。
それでも「昔のことだから」と、現在のその人を信じられるでしょうか。
チャーリーが過去を知った瞬間も、エマ自身は何も変わっていません。
目の前にいるのは、それまで一緒に暮らし、愛し、結婚しようとしていた「自分が好きになったエマ」です。
でも同時に、チャーリーの中には「知らなかった過去のエマ」が見え隠れする。
現在のエマと、過去のエマ。
変わったのはエマではなく、チャーリーから見えるエマの姿です。
だからこそ、チャーリーは混乱します。
そして観客も、ほとんど同じ場所に立たされます。
「今の彼女を見ればいいじゃないか」と思う。
でも、本当に?
もし自分の結婚相手だったら?
その問いを突きつけられると、急に簡単ではなくなります。
パティンソンが「自分」を見失っていく
最初は、秘密を告白したエマの方が「問われる側」に見えます。
ところが映画が進むにつれて、チャーリー自身が分からなくなっていく。
彼女を信じることが愛なのか。
過去は過去として受け入れることが、あるべき態度なのか。
それとも自分は、愛しているからという理由で見えなくなり、受け入れてはいけないものまで受け入れようとしているのか。
同僚にまで例え話で聞いて、自分の正気度を確かめようとします。
エマを信じられるかどうかだけではありません。
エマを信じようとしている自分自身を、信じられるのか。
ここまでひっくり返っていくパティンソンが、最高でした。
※ここから重大なネタバレがあります
アメリカの「銃社会」
エマが15歳のときにしようとしたのは、自分の通っている学校での銃撃でした。
実際に実行することは、なかった。
でも、頭の中で考えただけでもない。
銃を手にし、計画し、予告動画を撮るくらいまで進んでいた。
ここが絶妙です。
実際にこの計画が実行されていたら、二人は出会っていないでしょう。
逆に、「一瞬そう考えたことがある」だけなら、15歳のころの話として片づけられるかもしれません。
その間にあるからこそ、観客も困る。
アメリカでは、1999年にコロラド州のコロンバイン高校で銃撃事件が起きました。マイケル・ムーア監督のドキュメンタリー『ボウリング・フォー・コロンバイン』(2002)で、日本でも広く知られるようになった事件です。
その後も、2012年のコネチカット州ニュータウンのサンディフック小学校、2022年のテキサス州ユヴァルディのロブ小学校など、学校での銃撃事件は繰り返されています。
だから、本作をアメリカで観るのと、日本で観るのとでは、少し違う映画体験なのかもしれません。
実際、コロンバイン高校銃撃事件で息子を亡くした父親のTom Mauserさんは、ゼンデイヤのような人気俳優を起用し、この題材をロマンティック・コメディの中で扱うのは、容認できないというスタンスを示しました(出典:Backlash mounts over twist in Robert Pattinson Zendaya romcom The Drama)。
実際の事件で家族を失った人にとって、この設定はまったく違う重さを持つでしょう。本作の中でも身近に被害を受けた人がいた友人の反応は描かれています。
日本は少なくとも銃社会ではない。学校等で銃撃事件が起こる可能性はゼロに近いです。
日本で同じ物語を作るなら、たとえば、学校や街中で無差別に人を傷つけようと計画し、刃物まで準備していた。でも実行しなかった。
そんな過去を結婚直前に知らされたら。
そう考えると、少しチャーリーの「あたふた」が自分の側に近づいてくる気がします。
人の頭の中なんて、わからない
そして私は、この映画を観ながらもうひとつ思いました。
人の頭の中なんて、本当はわからない。
エマは、やろうとした。でも、やらなかった。
その間は紙一重だったのかもしれません。
もちろん、武装して学校を襲撃しようとすること自体、決して格好いいことでも、軽く扱っていいことでもありません。
それでも結果として、エマは誰も殺していない。
「やろうとしたのだから、やったのと同じ」とも言えないし、「やらなかったのだから、何もなかった」とも言えない。
このどちらにも振り切れないところに、チャーリーは放り込まれます。
私たちは普段、一緒にいる人の頭の中をすべて知っているわけではありません。
恋人でも、夫婦でも、家族でも、その人が15歳のときに何を考えていたかなんて、知らないことの方が多いでしょう。
チャーリーは、知らなくてもよかったかもしれないエマの一面を、知ってしまった。
チャーリーが作り上げた「過去のエマ」
そして、ここでもこの映画のレイヤーが面白くなります。
映画では、若い頃のエマの姿が実際に映し出されます。銃を持つ姿や、動画を撮っていたときの姿まで、私たちは見ることになります。
でも考えてみれば、チャーリーはその頃のエマを見たことがありません。
彼が知っているのは、現在のエマから聞かされた話だけです。
だとすれば、私たちが見ている「過去のエマ」は、聞いた話をもとにチャーリーが頭の中で作り上げたエマなのかもしれません。
目の前にいる、自分が愛したエマ。
彼女が語る、15歳のエマ。
そして、その話からチャーリーの中に作られていく「知らないエマ」。
どれもエマなのに、少しずつ違う。
チャーリーがあたふたするのも当然です。
そして私たち観客も、彼と一緒になってあたふたする。
ゼンデイヤとロバート・パティンソンが観たくて入った映画館で、まさかこんなことを考えるとは思いませんでした。
でも、たしかに普通のロマンティック・コメディじゃなかった。
私の好きな、レイヤーのある映画でした。
今日はこの辺で。