『勝手にしやがれ』オタクが作った『ヌーヴェル・ヴァーグ』
こんにちは、星読み☆映画ライターのJunkoです!
リチャード・リンクレイター監督の『ヌーヴェル・ヴァーグ』を観てきました。
もちろん映画ファンとして、1950年代後半から始まるヌーヴェル・ヴァーグ(ニューウェーブ)は尊敬に値します。ハリウッド映画を教科書のように学び、映画を浴びるように観てきた若い映画通たちが、その文法を知ったうえで、あえて連続性を崩すような編集を試みたり、小型化・軽量化した撮影機材の普及も背景に、スタジオを飛び出して路上で撮影したり。「カイエ・ドゥ・シネマ」という雑誌(1951年創刊)をはじめとする映画批評の文化も熟成され、ついには評論家だった彼ら自身が映画制作に乗り出します。それは既存の映画への挑戦であり、映画そのものへの愛情から生まれた実験でもあったのでしょう。そうして、「新たな波」が到来しました。
『ヌーヴェル・ヴァーグ』へのひと言
『勝手にしやがれ』オタクが作った映画。 本作を観た時、クエンティン・タランティーノ監督のことが頭をよぎりました。ジャンルはちがえども、リチャード・リンクレイター監督も、まさにジャン=リュック・ゴダール監督の『勝手にしやがれ』(1959)をコマ単位で脳裏に焼き付けているはず。
全編モノクロで、実際の『勝手にしやがれ』メイキングと思わせる場面が次々と登場します。ジャン=ポール・ベルモンド(ミシェル)役も、ジーン・セバーグ(パトリシア役)も、ゴダール監督役も、ほどよく本人に似せている。でも酷似までいかないのは、『勝手にしやがれ』ファンへの配慮だったりもするのかな。
『勝手にしやがれ』という映画が、いったいどんなふうに作られたのか。その舞台裏を、映画そのものを使って「再現」しているような面白さがあります。
観客としては、過去の撮影記録から再現したであろうメイキング(カメラの後ろ側)だと想像しながら…。
ゴダールの行き当たりばったり
その中でも特に笑ってしまうのが、ゴダールの気まぐれぶり。
「今日はこれで終わり」
「まだ何も撮ってないじゃないか」
これがまかり通ってしまったりする。脚本の神様が降りてくるのを待っているのでしょうか。実際、俳優が現場に入っても、待機だけで撮影が行われない日もあったようです。
「アイデアがない」のは、台本を忠実に映画にしていく映画制作からは考えられない行為ですが、だからこそ即興や「その場限りのフレッシュさ」が撮れたりもします。
また、先ほどの連続性は無視。登場人物の衣服や帽子が日を跨いで変わったとしても、そのまま使ってしまう。そういう荒々しさがあります。
結果的に映画史を変えた作品ですが、それが綿密に練られたものではなく、行き当たりばったりで、気まぐれで、どこか飄々としている。あと、注目されていたトリュフォー監督(『勝手にしやがれ』原案)やシャブロル監督(『勝手にしやがれ』技術顧問)の人脈や時代の機運に後押しされた感もあります。運も実力のうち。
カメラが街に出た
『勝手にしやがれ』をもう一つ特徴づけるのが、街を自由に動き回れるカメラです。
ミシェルが警官に追われ、ジャン・ポールの背中姿を捉えるあの有名なシーンを撮るために、カメラをトロッコのようなものに載せて動かしてしまう。しかも、そのトロッコがゴミ箱のような箱。カメラだと気づかれないから、通行人にも目立たない。
「この場面、こうやって撮ったんだよ」「この人、こんな感じだったんだよ」
「ほら、ここは元の映画と同じでしょ」
と、好きな映画について嬉々として語っているような感じ。
もちろん、こちらが『勝手にしやがれ』を知っていれば知っているほど、この楽しさは増していきます。
そして映画は、パトリシアのあの有名な一言で終わります。
『勝手にしやがれ』が、もう一度観たい。鑑賞後、真っ先に浮かんだのはその思いでした。
そう思わせた時点で、この『勝手にしやがれ』オタクの映画は、かなり成功しているのではないでしょうか。
今日はこの辺で。
映画公式サイト:https://nouvellevague-movie.com/