その宇宙は、私には少し遠かった『サンキュー、チャック』
こんにちは、星読み☆映画ライターのJunkoです!
『サンキュー、チャック』(マイク・フラナガン監督、2025)を観ました。
世界の終わりから始まる映画です。
インターネットはつながらず、街には不穏な空気が漂い、人々は少しずつ世界の終焉を受け入れ始めます。私は当然、この世界がなぜ滅びようとしているのか、その謎が明かされるか救世主が現れる作品なのだと思っていました。その鍵となるのが、チャック。
ところが物語は、チャックというどこにでもいそうな男性の人生を綴っていきます。
『サンキュー、チャック』へのひと言
壮大な設定と、あまりにも普通の人生。
この落差が、この映画の最大の特徴でした。
映画は逆時系列で構成され、死の直前から人生をさかのぼっていきます。現在から過去へ向かう構成自体は興味深く、少年時代の経験が一人の人生を形づくっていく様子も丁寧に描かれています。ダンスの才能や、屋根裏の幽霊のエピソードなども、記憶としてはあるあるですね。
特にディズニーランドのような人工的な街角で突然始まるダンスシーンは、この作品を象徴する場面なのでしょう。『ラ・ラ・ランド』のようでやや既視感がありましたが(同じ振付師でした)、人生は思い通りにならなくても、一瞬の喜びは存在する。そんなメッセージが込められているように感じました。
チャックの少年時代に踊るシーンは、可愛かったですけれども。プロムのお相手は、トリニティ・ジョリー・ブリスが演じていました。2009年生まれ(まだ16歳!)で、お母様が中国の方とのこと。これからが期待されます。

さて、この平凡なチャックの人生を見せられている私たちに、ジム・キャリーの『トゥルーマン・ショー』(1998)のような、大きなどんでん返しがあるのでは、と期待していました。
最後まで私は、「世界の終わり」とチャックの人生との結びつきを十分に理解できませんでした。
鑑賞後に調べると、「チャック一人の人生そのものが一つの宇宙であり、冒頭の終末世界は彼の世界が消えていく(彼の命が絶えていく)ことを表している」という解釈が多くみられました。
なるほど、そうだったのか。
例えば日本に『忠臣蔵』をある程度の前提知識とした作品があるように、本作にもアメリカの文学や思想を背景にした文脈があるのかもしれません。
原作スティーブン・キングと聞くと、「何か大きな仕掛けがあるのでは」と期待してしまいます。しかし本作は、そうした驚きよりも、「一人の人生そのものを祝福する」という静かな作品でした。
スティーブン・キングはホラーの要素だけではないと思うので、その優しい眼差しには共感します。ただ、私にはその「一人の人生が宇宙である」という感覚が、映画を観ている間には十分伝わってきませんでした。
アメリカ文学もかじったんだけどなぁ。
ウォルト・ウィットマンの詩
I am large, I contain multitudes.
(私は大きい。私は無数のものを内包している。)
本作はアメリカでは高く評価されています。その理由の一つは、「一人の人生は、それだけで一つの宇宙である」という考え方が、アメリカ文学や思想の流れの中では比較的自然に受け入れられるからなのかもしれません。
一方、そうした文脈を共有していない観客は、「世界の終わり」と聞けば、その原因や意味を物語の中で知りたくなります。私も最後まで、その壮大な設定とチャックの人生との結びつきを映画だけで十分につかむことはできませんでした。
その意味では、『サンキュー、チャック』は優しく穏やかな作品でした。ただ、その宇宙は、私には少し遠かった。
チャックを演じたトム・ヒドルストン以外、誰も心に残らなかったのですが、それ自体、「人生」に焦点を当てる行為だったのかもしれません。
ヒドルストンの普段の様子を見ると、この作品ではオーラ消してたんですね…。
今日はこの辺で。