『サムライ』——目立つ男を目立たせない
こんにちは、星読み☆映画ライターのJunkoです!
ジャン=ピエール・メルヴィル監督の『サムライ』(1967)を4K上映で観ました。
冒頭の説明にあるように、これは本物の侍が出てくるわけではなく、侍のもつ孤独、武士道へのリスペクトをもとに作られた作品です。その後、マーティン・スコセッシ監督やクエンティン・タランティーノ監督が引用するような古典として扱われています。
正直に言うと、最後は「ポカーン」です。でも、その「分からなさ」があとからじわじわ効いてくる、不思議な作品でした。
『サムライ』へのひと言
かっこよすぎて目立つ問題。
アラン・ドロン演じる殺し屋、ジェフ・コステロ。まず名前がいいですね。ジェフはアメリカ系、コステロはスペイン系のイメージ。フランスではありません。
彼は殺し屋なのですが、ベージュのトレンチコートとフェドラハット(前の両側がくぼんだ帽子)を着用。当時のフランス人らしいルックスであると同時に、これが記号と化して、チェス駒のように見分けがつかない効果があります。
そして、アラン・ドロンは180センチ超えなのでしょうか(公開情報では178cm)。あの容疑者が立たされる面通し(ポリスラインアップ)のシーン。

しかも襟立てる〜!余計目立つ〜!
ファン泣かせのフィルム・ノワール
しかしですね、ここからはファン泣かせ。
まず、ジェフ・コステロの顔。ほとんど見えません。そもそも群衆に紛れており、顔も帽子に隠れています。
そしてセリフは極限まで抑えられている。殺し屋は独り身で、家では会話ゼロ。飼っているカナリアに話しかけることもしません。
アラン・ドロンを見に来たらがっかりする部類の作品です。
フィルム・ノワール的要素としては、まず善悪が曖昧であり、殺し屋が主人公というところは頷けます。そしてスタイルとしても、被写体を明るくするではなく、影を作るために照明を使っていて、顔が暗くなります。そのためアラン・ドロンの美貌が見えないことも多いですね。
ですからこの作品を思い返すと、やはりコステロの表情というよりは、コートと帽子という「型」が思い出されるわけです。
ちょっと笑える捜査シーン
さまざまな「削ぎ落とし」をしているメルヴィル監督ですが、むしろ捜査のシーンは会話も動員も多く、少しコメディのように映ります。
ナイトクラブで殺人が起きた後、容疑者を80人くらい集め、ずらっと並べる。そして、クラブの従業員たちが審査員のように、一人ずつ
「違います」
「そうです」
と言わせる。
……それ、人の意見に引っ張られるでしょ、と思わずツッコミ。
盗聴器やテープレコーダー、地下鉄の尾行も含めて、今の時代から見ると少し笑っちゃいます。
「証言の曖昧さ」というのは、お決まりですね。そして「都市の匿名性」。パリの地下鉄を駆使した撮影で、フィルムカメラの時代においてなかなか臨場感があります。
ヴァレリーが最適解か
ナイトクラブのピアノ奏者かつ歌い手、ヴァレリー(カティ・ロシェ)は、最後まで怪しいと感じる一人です。
ジェフの味方なのか、敵なのか、それともただ操られているだけなのか。
しかも彼女は、ラスポスに囲われていることも、途中で判明します。
ラストの展開には、私は「ポカーン」としましたが、
ジェフ・コステロの生き方
警部の生き方
クラブオーナーの生き方
クラブ従業員の生き方
いろいろな人生のうごめきを見る中で、ヴァレリーの生き方の選択は賢いようにも思えました。
カナリアの存在
最後に。部屋にいるカナリア。
カゴの中の鳥、という閉じ込められた存在の象徴としてはよく分かりますよね。
もう一つは、「危険の察知」です。イギリスをはじめとして、炭鉱にカナリアを連れて行く慣習があります。一酸化炭素を察知できるからです。
カナリアが最終的に意味の回収をするわけではないですが、落ち着かなくなる様子は、作品終盤に向けての波乱を予感させるというわけです。
最後に
この映画は、
「分かりやすいかどうか」で評価はできません。
むしろ、「なぜそうするの?」という違和感を持ちながら、観続け、最終的に観客のなかで輪郭が浮かぶような感じ。
説明は排除、ここが潔い。行動に、説明をつける観客。
よいクラシックでした。タイトル書体も含めて。
今日はこの辺で。