そう、私たちは都会に集まる — 『私たちが光と想うすべて』

こんにちは、星読み☆映画ライターのJunkoです!

今日はインドのアート作品、『私たちが光と想うすべて』(パヤル・カパーリヤー監督)。2024年作品で、カンヌ映画祭で第2位となるグランプリを獲得しました。同年のパルム・ドール(最高賞)は、ショーン・ベイカー監督の『アノーラ』でした。どちらもいい映画ですね。

女性監督を反映してか、登場人物はムンバイで働く看護師プラバ(カニ・クスルティ)、若い同僚アヌ(ディビヤ・プラバ)、そして病院食堂の中年女性パルヴァティ(チャヤ・カダム)。主人公二人と脇役の一人、このスリートップが女性。3人とも都市で働いている。プラバとアヌは有資格者。まずこのことが、現代を象徴しています。

光と想うすべて』へのひと言

田舎の海辺にいると、めちゃつまらなそう!

特に強調することでもないのですが、この3人が物語の後半、海岸沿いの地方都市に行くシーンがあります。

モノ、人、情報、全てにおいて都会との差が顕著な環境。「ない」ことに、呆れ顔の3人が可愛らしくて。

都会は24時間眠らない街。窓の外に見える高層アパートでは、夜中でも部屋の灯りがちらほら。スマホのメッセージも飛び交います。

一方で、田舎で「光」と言えば、ピーカンの太陽。海辺のバーでは、日差しを避ける屋根はあるものの、昼間はつけていないデコレーション・ライト。ムンバイと違いすぎるこの光景に、観客も戸惑います。

そして、光と対極の洞窟。この洞窟のシーンが好きなのですが、都会から来た者たちは、スマホのライトで中を照らそうとします。ここで光と闇、過去と現在が交錯します。同時に、プラバは海岸での不思議な出来事にも遭遇し、ここでも一気に過去と現在、場所、夢と現実が交錯します。

人の集まるところの魅力

日本の都市と田舎はどうでしょうか。「地の時代」が1990年代くらいまでは続いたので、都市に仕事があり、若者が集まりました。その後、「ない」ことを売りにしたリゾートが流行ったり、テレワークで少しずつ地方移住者が増えたりする現象も起きています。都市の人気は、相変わらず衰えません。もっと刺激をくれ!って感じです。

ないものねだりとは思いつつ、人ばかりで狭い土地に住むことの価値と、だだっ広い土地で人の気配もない土地に住むのと、どちらがよいのでしょう。週末は田舎に、というのはいいオプションなのかもしれません。

鑑賞中、ふと小津安二郎監督の名作、『東京物語』を思い出しました。老いた親が東京に出てくると、テンポが早すぎて若干迷惑がられる状態。観光地の熱海でフッとひと息。永遠のテーマかな。

異教徒間の恋愛

日本だと日常レベルであまり問題にならないのが、宗教です。インドではヒンズー教徒が80%、イスラム教徒が15%。異教徒同士が結ばれることはありません。ヒンズー教のアヌには、イスラム教徒の彼氏がいます。手をつないだり、人目につかないところでキスをしたりと、20代の男女そのものですが、そのことが小さな職場で噂になるのもせまい世界です。

一度、彼の自宅で一緒になるチャンスが訪れますが、その時も「変装」しなければいけないレベル。これはせつない。

お互いを大切に思っていることも、相手のからだを求める気持ちも自然でありながら、やはり異教徒間の恋愛には出口がありません。親から大量のお見合い写真が送られてきていても、腰を据えようという気もなく、自由恋愛を選ぶアヌは、共感の気持ちを集めるでしょう。ドゥパッタ(ショールのような長い布)を首に回す仕草や、残りの布がフワフワ舞う様子は、若さあふれる女性として可愛いです。

タイトルは『私たちが光と想うすべて』であり、結局人はどこに光(希望)を見るのか、光(救い)を求めるのか。そんな根源的な問いが作品を通して感じられました。

観ている途中は少し長さを感じたものの、終盤は作品の世界観に浸れる感じあり。是枝監督がお勧めしていたのも、分かる気がしました。

今日はこの辺で。

映画公式サイト:https://watahika.com/

Junko

1973年静岡生まれ、星読み☆映画ライター。アメリカ留学経験者、異文化交流実践者、広報コンサルタント。

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