出口のない情念、『太陽は我らの上に』

こんにちは、星読み☆映画ライターのJunkoです!

2025年の東京フィルメックスが開幕。オープニング作品の『太陽は我らの上に』(ツァイ・シャンジュン監督、2025)を観てきました。

主人公の女性1人に、男性2人。典型的な「ラブ・トライアングル」の構図ではありますが、「恋愛映画」に分類するには無理があるほど、湿度が高く、感情のドロドロを正面から描いた作品でした。

『太陽は我らの上に』へのひと言

まれに見る、救いゼロ作品。

再会から物語が始まるのに、楽しい要素ゼロ。過去に2人で作った秘密が、2人の間を縮めもするし、切り離せない重荷にもなっている。2人はどんどん消耗していきます。

シン・ジーレイが演じた主人公メイユンも、特別な境遇ということはなく、どこにでもいそうな女性。だからこそ彼女の苦悩が身近に迫ってくるんですよね。

「ラブ・トライアングル」という点を切り出すと、メイユンは昔の恋人と突然再会するものの、彼は病を抱え、命の残り時間が短い。一方でメイユンにはその時すでに、不倫関係にある相手がいました。

不倫相手とはどうなるかなと思ってみていたけど、過去の精算が重すぎてどうにもならない感じ。前の恋人の存在だけで手いっぱいで、ドラム式洗濯機の遠心力で“吹っ飛んだ”みたいな扱われ方。重圧はずっとメイユンの肩にのしかかり続けます。

彼女は一般的には「悪女」なんでしょうけれども、実際にはただ自分の人生をどうにか立て直そうと必死にもがく一人の女性。その複雑さに観客は自然と巻き込まれていきます。

ツァイ監督のリアリズム

中国にはながらく渡航していませんが、キラキラしていない生活感のある中国って、街でガラス瓶に茶葉を入れて湯を足しながら飲み歩いていたりするような風景が広がっていますよね。

この映画はそういった中国の飾らない今を、誇張せずにそのまま見せているように見えました。古いアパートの簡素な作り、安っぽい服、アンドロイド携帯、公衆トイレの水浸しな感じ。画面に映るこうした情景がとても自然で、男女の関係がドラマチックで悲劇的なのに、等身大と思わせる生活感がありました。

映画が131分と知っていたので、終盤、どう展開するのかモヤモヤ。エンディングは、正直「え、これでいいの?」という戸惑いが残ります。

日本の心中劇

ふと思い出したのは、日本でも人気を博した心中劇(破滅に向かう男女の恋物語)です。

本作ラストは、どこか“心中劇の情念”に近いものが漂っていました。近松門左衛門の作品にあるような、二人のあいだで愛情や罪悪感がどうしようもなく膨らみ、社会の出口が閉じられ、気がつけば破滅へ傾いてしまうというあの感覚。

メイユンもまた、長年置き去りにしてきた関係や、自分ではもう償いきれないという思いに追い詰められ、どこか「この世のルールではもう説明できない領域」に足を踏み入れていく感じがあります。生きて償うこともできないし、誰かと未来を築くこともできない。その行き場のなさが、古典の心中劇にある「情が人を動かしてしまう瞬間」とピッタリ一致。

現代の映画なのに、日本でいえば江戸時代に流行した、愛が破滅を招く物語に落ち着く感じが、印象的でした。

他人の不幸は蜜の味、と言います。しかしこの映画は、人間の弱さがあまりにも生々しく、突き放して見ることができない。メイユンも、2人の男たちも、観客の私たちと地続きの世界に生きていて、その痛みが静かに迫ってくる。そんな作品でした。

女性が主人公というのは、ここのところのトレンドかもしれません。

今日はこの辺で。

Junko

1973年静岡生まれ、星読み☆映画ライター。アメリカ留学経験者、異文化交流実践者、広報コンサルタント。

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