人のよい面に触れる、『石炭の価値』
こんにちは、星読み☆映画ライターのJunkoです!
好きな監督は?と聞かれて10人のうちの一人に入るのが、イギリスのケン・ローチ監督でしょう。監督が1970年代に撮った『石炭の値打ち』(1977)が、シネマリスで再上映していました。ほぼ50年前の作品ということになります。

『石炭の値打ち』へのひと言
誰もが一生懸命で、誰も責めない。
このひと言は、後半についてですが、まず全体像について書きます。
『石炭の値打ち』は、BBCのテレビ枠「Play for Today」で制作された二部作。同じ人物が登場し、炭鉱地帯を2つの物語で描いています。
サウス・ヨークシャー(South Yorkshire、イングランド北部)が舞台ですが、ここは炭鉱の町として知られていて、みんな徒歩通勤。バイクや自家用車がないくらい質素な生活なのかな、と思ったりしますが、雨の日は小走りしたり、店の大きなパラソルを拝借したりして、なんとも可愛い。
実際サウス・ヨークシャーの廃坑周辺で撮影したようですが、ヨークシャーでは1912年にCadeby Main pit disasterという炭鉱爆発による死亡事故がありました。しかも、爆発後にレスキューが入ったところ、2回目の爆発でレスキュー隊員も犠牲になったという悲劇でした。
炭鉱はこの地域にとって日常、仕事、誇り、そして危険をはらんだものだったことが分かります。
まず、第二部「Back to Reality」から説明します。作品中でも残念ながら事故が起きます。今風の視点から見れば「誰が責任を取るのか」「〜〜の命を返せ!」となりますよね。
しかし、全員がある意味冷静で、ヒステリックに叫ぶ人などいません。責任者は責任者として、作業員のボランティアはボランティアとして、家族は家族として、粛々とできることをしていきます。ここでは、想定していなかった悲劇というより、想定していた悲劇と、それへの対処が描かれます。お給料がそんなによかったとは思えませんが、力仕事ですからある程度若さや体力があればできる仕事。事故はゼロではない、という意識のもとに勤務している描写でした。
日本では2000年に、雪印が食中毒を起こし、会見での「私は寝ていないんだよ!」というセリフが話題となりました。
その残念な記憶がある中で、本作を見ると、フィクションではありますが、責任者が徹夜した腫れぼったい目で、愚痴もこぼさず翌日も対応している。夫が炭鉱の中で見つからない妻のことをケアする管理者がいる。とにかくそういう「人へのケア」が行き届いていて、炭鉱全体がファミリーというか、共同体だった様子が見て取れます。
いい意味でも悪い意味でもですが、従業員の家族を知っている。家族構成や子どもの年齢を知っている。そういう環境です。
脚本バリー・ハインズの祖父は落盤事故で亡くなり、父も炭鉱労働者。ご本人も短期間坑夫として働いた経験があるそうです。そのことも手伝ってか、事故後の描写にドラマ性は排除され、人々の連帯が印象に残ります。
日本では風刺化されない、皇太子の訪問
一方の第一部「Meet the People」(75分)は、皇太子の炭鉱訪問をめぐるドタバタ劇。チャールズ皇太子が訪れるたった1日のために、芝生を生やそうとし、見た目を繕い、不審物のチェックで鉱夫の弁当箱を開けさせてジャムサンドを検査する、滑稽な日々を描写します。ちなみにイギリス食パンがすっぽり入るブリキの弁当箱が、可愛い。
ここで王室そのものは批判していませんが、皇太子訪問に向けて現場を「取り繕う」感は、十分皮肉として描かれています。日本は、こういった描写はできないでしょう。もし皇太子の行啓(ぎょうけい)があったとしても、その準備を茶化すような発言を含んだ映画やドラマは、受け入れられないように思います。
第一部と第二部のちがいは対照的ですが、人生を詰めこんだのは、ケン・ローチ監督らしいですね。
ドキュメンタリー仕立てのフィクション
『石炭の値打ち』を観ていて、ワン・ビンの『鉄西区』(2003)を思い出しました。崩れゆく産業で、人々はいつも通り働く姿に、観客はなぜか虜になってしまいます。『石炭の値打ち』はフィクションですが、一つはシリーズのコンセプト、もう一つは監督の作風もあって、特に第二部はドキュメンタリーに見えてきます。事故をかぎつけたメディアを追い出すのか、部屋に招き入れるのかあたりも、とてもリアル。
約3時間。第一部のコミカルなタッチに、休憩を挟み、第二部のシリアスさ。でもこれはケン・ローチ節だから、観終わったあとにずっしり重みが来る。王室が来ても、事故があっても、人が働き続ける事実は変わらない。静かに、淡々と描いた作品だからこそ、沁みます。
今日はこの辺で。